島原巡礼コース
(7時間)
普通車 ¥53,300 | 大型車 ¥69,900 | ジャンボ ¥72,600 |
観光行程
- 1. 長崎エリア お迎え
- 長崎駅を中心とするおおむね半径3kmのエリアまでお迎えします。

61.2km
- 2. 島原エリア
- 滞在時間 150分(移動時間・昼食時間含む)
島原城・武家屋敷・島原教会・鯉の泳ぐまち・雲仙岳災害記念館を含む一帯
※ 昼食時間も含む滞在時間となります。(昼食代金は含まず)

14.8km
- 3. 南島原エリア
- 滞在時間 162分
古利支丹墓碑・日野江城跡・有馬川殉職地・有馬キリシタン遺産記念館・原城跡含む一帯

10.7km
- 4. 雲仙温泉エリア(終点)
- 雲仙小浜町雲仙(雲仙教会から仁田峠までのエリア)

観光マップ
観光スポット
島原エリア

島原城
1616年、大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政は、1618年から7年余の歳月を費やして島原城を築きました。
1873年の「存城廃城令」により、民間に払い下げられました。以来、文字通りの荒城となっていましたが、1964年に復興された五層の天守閣をはじめ、3か所に三層櫓を配し、安土桃山様式の壮麗な面影を残しています。
現在、城内の建物はキリシタン史料館(天守閣)、北村西望記念館(巽の櫓)民具資料館(丑寅の櫓)などに利用されています。なかでもキリシタン史料館は、有名なキリシタン大名有馬晴信(ドン・プロタシオ)時代に盛んであった南蛮貿易時代から、宣教時代・禁教時代・弾圧時代と続き、島原の乱関連の資料を展示しています。
※「長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」より引用

武家屋敷
島原城の西に接した上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建に扶持取り70石以下の徒士屋敷約700戸が軒を連ねていました。
鉄砲隊の居住地であったことから、一帯は鉄砲町とも呼ばれていました。
各丁の道路の中央には水路を設け、清水を流して生活用水としていましたが、防災・防火の見地から片側に移設。けれど下の丁の町並みだけは、住民のご協力を得て「武家屋敷町並み保存地区」として定め、昔どおりに保存されています。
※「長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」より引用

島原教会
島原の乱後、キリシタンが根絶したとされる島原半島では、1902年からようやく再宣教が始まった。1932年に島原二の丸教会を建立し、1997年に現在のドームの教会が建てられる。敷地内には天正遣欧使節で、禁教下、口之津を拠点に九州の信徒を訪問した中浦ジュリアン神父像がある。
※「長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」より引用

鯉の泳ぐまち
島原は古くから水の都といわれていますが、中でも新町一帯は特に湧き水が豊富で、地面を50センチメートルも掘ると湧き水が出てくるほどです。
地域の町内会が中心となって、子供たちの感性をはぐくみ、豊かな湧き水を後世に残し、また観光に活かそうという趣旨のもと、町内の清流に錦鯉を放流しました。
「鯉の泳ぐまち」は地域住民の方々によって美しくたもたれ、紅白、三色、黄金等の錦鯉が清冽な流れの中で泳ぐさまは水の都島原のみどころの一つとなっています。
※「長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」より引用

雲仙岳災害記念館
1990年11月より約5年間にもおよぶ雲仙普賢岳の噴火。この地で何が起き、人々はどのように乗り越えてきたか。自然の驚異と災害の教訓を風化させることなく後世へ残しながら、火山や防災、ジオパークまで、幅広く学ぶことができる「がまだすドーム」として、2018年4月リニューアルしました。
大噴火シアターへの新コンテンツの追加や、普賢岳に見立てた体験アトラクションが楽しめる「こどもジオパーク」、火山や防災を楽しく学べる「ワンダーラボ」などワクワク・ドキドキがいっぱいの新たな魅力が加わりました。
※「長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」より引用
南島原エリア

古利支丹墓碑
ローマ字文が刻まれた墓碑として日本最古とされる蒲鉾型の墓碑。共同墓地にある現在地の地下から1929(昭和4)年に発見された。1610年になくなった「フィリ作右衛門ディオゴ」というキリシタンのものである。
※「長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」より引用

日野江城跡
一時は肥前国に広域な勢力を伸ばした有馬氏の居城跡。大手門付近などに石垣が残る。近年の発掘で、キリシタンとなった有馬義貞・晴信の時代の状況をかたる仏式の墓石等も利用して作った階段遺構などが発見された。
※「長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」より引用

有馬川殉職地
棄教を拒否した有馬直純の3人の重臣とその家族が、1613(慶長18)年、2万人以上の信徒が見守るなか、日野江城の前の広い浜で火刑となり、殉教した。その中には11歳の少年もいた。188福者となる。
※「長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」より引用

有馬キリシタン遺産記念館
世界文化遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産である「原城跡」をはじめ、「日野江城跡」、同時に信仰を支えた教育機関「有馬のセミナリヨ」などを紹介しており、長崎におけるキリスト教の伝来と繁栄、激しい弾圧、キリシタンの潜伏から復活など一連の歴史を学ぶことができます。
※「長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」より引用

原城跡
原城は1496年、東肥前までも勢力を延ばし当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純によって築かれたといわれ、周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害で、本丸・二ノ丸・三ノ丸・天草丸からなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城であった。晴純の代に至り、有馬氏の全盛時代となったが、次第に衰退
義直時代には、佐賀の龍造寺により再三侵略されたが、島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利をおさめ、島原半島の南部をかろうじて維持できた。有馬晴信が1612年に岡本大八事件に連座し配流・切腹となり、子直純が再度有馬の地をおさめたが、2年後日向に転封となった。その後、1616年大和五条より松倉重政が入封、一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したので、日之江・原城は廃城となった。1637年、この廃城となっていた原城に一揆が籠城した。「島原・天草一揆」である。
昭和13年5月30日、国の史跡文化財に指定。原城本丸には南島原市出身の彫刻家・北村西望による祈りをささげる天草四郎像や、西有家町の民家の石垣に埋もれていた天草四郎の墓石が移されている。
世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産です。
※「長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」より引用
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